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ホーム 木津川計の「本が育てたぼく」
木津川計(きづがわけい)プロフィール

1935年生まれ。大阪市立大学文学部社会学科卒。
和歌山大学観光学部客員教授。雑誌「上方芸能」発行人

NHKラジオ「ネットワーク関西」コーディネーター(レギュラー出演)、
同「ラジオエッセー」(レギュラー出演)
1998年、第46回「菊池寛」賞受賞




2008年8月 更新分!
「処女作『文化の街へ』を構築して」

 なにしろ初めての単著である。設計図としての目次づくりに呻唸とはこのことか、と思えるくらいぼくの難儀は夜の座敷机を前に極まるのである。  ああでもない、こうでもない。先ず三章に分けるとして、それぞれを三つの節で構築し、全体を組み合わせると80年代の大阪文化、ひいては都市文化をどうするか、のぼくなりの問題提起はできようか。  半月をかけてやっとの思いで出来上がった目次はつぎのようになったのである。  『文化の街へ』
 本書を読まれるあなたに

 文化のたたずまい ―大阪に探る―
  変貌する都市 ―まち文化の視点―
  大阪の文化的特質 ―宝塚型・河内型・船場型―
  大伽藍主義と都市文化 ―中之島芸能センター構想をめぐって―

 文化開発を眺める視座 ―なぜ文化は産業化されるのか―
  文化産業論の登場 ―利益のための文化論―
  文化の二重構造時代 ―“大資本大文化”と“小資本小文化”―
  “中流九割”のエレジー ―それでも中流を自認するのか―

 一輪文化と草の根文化 ―都市を育む二つの文化―
  一輪文化と草の根文化 ―二つの文化の相互補完性―
  “中流九割の文化” ―豊かさと必暇の条件―

 精神の百姓たる日々 ―文化の生産者であること―
 都市と文化 ―麗しい都市へ―

 あとがき

 目次はただ羅列するのではない。建築の設計図が空間を構築するように、本一書を組立てるのである。建築家への尊敬をそのころから覚えた。  この書でぼくは戦前戦後の大阪、その変貌を多面で綴り、あの時点での大阪の文化的特質を宝塚型、河内型、船場型と特質づけた。顕になる文化の二重構造時代であった。小資本小文化を大資本大文化が食い荒す、その現状を告発しながら、都市には二つの文化が共存してこそ発展するのだ、という展望に力を入れた。即ち、一輪文化(プロフェッショナルの生活としての文化)と草の根文化(アマチュア市民の生活の彩り、張りとしての文化)である。さらにこの二つの文化が育まれる条件をまさぐった。少くも、成長する草の根文化のためには、経済的ゆとりと時間的ゆとりが不可欠である、と。  しがない人間に過ぎなかったが、ぼくは文化のための工作人を自認していた。文化のための消費者になるのではなく、生産者であらねば。そのために、文化の都市を志す人はすべからく背広を着た百章になろう! 麗しい年はかくして構築されるのだ。  およそ六ヶ月をかけ、三百数十枚を脱稿したのは1981年の夏、朝まだきであった。後書きにこう記した。  「やってきた朝の気配。八月の終わりの朝まだきは清冽ではない。ほどなくすがしい季節の朝がこよう。  にわかに雀が鳴きはじめた。いま吸う一服の煙草が実にうまい」  出版されたのは10月25日であった。『上方芸能』を興して13年。父の負債を返済し、小さな印刷屋の業態を改善し、人の三倍働いてきた年月の塊を前に、ぼくはキザなことばだが自分を褒めたのである。  処女作『文化の街へ』は一人歩きし、いろんな方に読まれていたのである。ぼくの人生がやがて変る、そのきっかけになるとは思いも及ばなかったのである。



2008年7月 更新分!
『「星一つ」の希望』

 “漫才育ての親”秋田実さんの元へときどきお邪魔するようになって驚いたことがあった。応接室で話を聞いていると、どうやら出版社から電話がかかってきたのだ。秋田さんはいま執筆中の本の脱稿にあと二ヵ月、「まあ十月ぐらいからやったらかかれるやろう。そっちの企画趣意書を書いて送ってくれるか」と返事しておいでなのだ。  ぼくは出版社の依頼で本を書く、言うところのもの書きがこの世の中にはいるのだ、と秋田さんを見つめながら思い、鷹揚な受け答えに驚くと同時に、生涯に一冊ぼくも出版社からの依頼で本を書く、そんな日が来るだろうか、と自問してうなだれるのだった。  しかし、生涯にせめて一冊は思いのたけを書き残して地上から退場したい、切にそう思った。  ぼくの好きな詩人に天野忠さんがいる。もう亡くなって久しいが、読売文学賞を受賞された大詩人である。「星」という詩がある。   昭和のはじめ/ガリ版刷りの同人雑誌の/貧乏で陽気な仲間が言った。/「諸君、岩波文庫の星一つで一年間食えるそうだっ」/星印一つの印税で/一年間楽に暮らせるということである。/十あれば十年間、十五あれば…/みなが皆目の眩む思いがして/急いで星かぞえをした。/例えば/志賀直哉 星四つ/芥川龍之介 星三つ/カラマゾフの兄弟 星十五/戦争と平和 星二十二/…おお せめて/せめて星一つの古典を書き残したい―/あれから五十年/星一つ残さず仲間は皆退場した/病死 戦死 事故死/行方知れず 牢死もある/そして/老衰。/…/住み古したボロ家の窓からも/ぼんやりかすんで/いまも私の目に見える/星…。  昭和のはじめの、この若者達の夢はまたぼくの夢と重なった。おお、せめて星一つの古典でなくとも、本一書を残して…、と思ったのだ。だが、大方の夢は破れ、ぼくもそんな道を辿るのか、と思っていたら、大月書店の小林旭さんから「文化に関する本を一冊書け」という電話がかかってきた。あゝ、ついにぼくも本を書くのだ、と思うとふつふつと身内から意欲の血が沸いてくるのを感じた。  小林さんとの何度かのやりとりの末、大阪の文化、芸能を見据えながらぼくなりの都市文化論をまとめようと思ったのだ。  さて、本を書くという大作業は、いまにして言えるのだが、建築と同じようなものだ、と。建てるには設計図がいり、その指示に従って工程は進むのである。その頃、テレビの落語でたまたま、「名人というものは段取りが八分で仕事は二分だ」という棟梁の語りを聞いて、ほう、段取りが八分か、と思い、その設計、即ち、目次づくりに取りかかったのである。  一週間、二週間を費やして構想を練り、目次内容を詰めていった。昼は印刷屋のオヤジ業、設計は帰宅してから深夜にかけての仕事だった。



2008年6月 更新分!
「一冊の本を書くには千冊の読書」

 20代の終り、ぼくは“漫才育ての親”といわれた秋田実さんの教えを受けたのだった。当時、ぼくは秋田県に本部のある民族歌舞団わらび座の後援活動をしていたのだが、そのわらび座の団長・原太郎さんが旧制大阪高校で秋田実さんと同窓だったのである。  原太郎さんが紹介してくださって秋田実さんのもとへ出入りする。のち、秋田さんの後押しで「上方落語をきく会」を組織、第一回きく会を1968年1月、大阪の青少年会館小ホールで開き、二回目の4月、上方落語をきく会の会報として前回述べた『上方芸能』を創刊したのだった。  だから『上方芸能』の創刊号と第2号の発行母体は「大阪わらび座後援会」の横に大きな活字で「上方落語をきく会」と並んで記した。が、第3号から「大阪わらび座後援会」をはずし、「上方落語をきく会」だけの発行母体にした理由はつぎによっていたのだ。  一つは、わらび座の民族歌舞だけでなく、広く上方芸能全体を対象にした雑誌をつくろうと思っていたのだ。すると、わらび座後援会よりも上方落語をきく会の方に広がりのある展開が可能と思ったのである。  もう一つは、わらび座の創造理念にぼくはついていけないと感じ始めていたのだ。芸術よりも政治を先行させる政治至上主義、それに、この国の民謡を守ろうとしていたから後援していたのに、極めて政治的な内容の歌舞劇を創造の中心に据えるに及んで、ぼくは考え方でも体質的にも合わないと思い、わらび座とのかかわりを断っていくのである。わらび座もぼくの考えを異質と思ったのだろう、パタッと座員の出入りがとまった。  「上方芸能」をなぜわらび座後援会が創刊したのか、どこかで明らかにせねばならない、と思っていたことをここで初めて述べた。  ぼくの本名は「坂本凡夫(つねお)」である。凡夫には違いないとはいえ、もっと若々しく清新な名前、即ち、筆名で一人立ちしようとひそかにこころしていたのだ。第2号「胸のすく笑いの創造を」から「木津川計」を用い始めた。1968年8月であった。  小さな小さな、文字通りミニコミであった『上方芸能』で木津川計がいくら論陣を張ろうが、論壇に何の影響が及ぼう。灯篭の斧に過ぎなかったのだが、「本を一冊書け」と東京の出版社・大月書店が言ってくれたのである。宮本大阪史学を構築された、当時の大阪大学教授・宮本叉次さんにぼくは言われたことがある。「君、本を一冊書こうとしたら1000冊読まんと書けんぞ」。うーんとぼくは唸った。  とても1000冊どころではない浅学、加えて非才の身。果たして一書を書き切れるものであろうか。大きな不安と、これで論壇の片隅の片隅の端の端に加えていただけようか、そんな思いで処女作『文化の街へ』の内容固めに入ったのである。1981年の4月であった。



2008年5月 更新分!
「読書目標年間150冊」

 一年に150冊の本を読もう、と決めたのは36歳の秋だった。  その4年前、ぼくは『上方芸能』という伝統芸能から大衆芸能までを範囲とする芸能専門誌を創刊していた。  芸能に知悉していたのではもとよりない。大阪を深く理解していたのでもない。恥ずかしいほどの蓄積しかないぼくが、志を立て「伝統芸能の発展のために」を旗印に、B5版7ページ、タイプ印刷の創刊号を出したのである。32歳の4月であった。  発行を重ねながら、自分の無知が情けなかった。何も知らず、分かっていないことを自覚するほどに、おそまきながら勉強しようと自分を奮い立たせたのだ。150冊読破を目標にしたスタートだった。  まず大阪の歴史を知らねばならなかった。上方芸能の理解も緊要だった。選択する暇もなく、手当たり次第の読書が始まった。  その頃、自殺した親父の負債を返済しながら、ぼくは家業の小さな印刷業を立て直していたのだ。自転車で大阪の街を走りながら原稿を貰いに、製品を届けに、夜は遅くまで製版にかかる。その合い間の読書である。通勤電車の中、食事しながら、歩きながらも、待ち時間も読みふけった。  知らないことばかりだった。一冊一冊ぼくの血になり肉になっていくのが分かった。だが、忙しくて読めない日がある。そんな日が五日、六日も続くと150冊に届かない。員数を割らないために、早く読める詩集や歌集を手にした。後年、この短詞型文学が役に立った。ものごとを把える眼、発送のヒント、情感の開発…、そんな試みの土台になった。  日曜日は、その週に読んだ印象深く、興味深い個所をカードに写したり、署名と記述の頁数を記した。ぼくがその後ラジオで喋り、著作にふける、その折の貴重な財産になった。  年間、およそ150冊、そのペースで五年続け、一区切りしたあと、処女作の執筆に向った。45歳になっていた。